いまあたりまえに見える田んぼの風景は、三千年ちかい試行錯誤の積み重ねです。自然栽培は「昔に戻る」ことではありませんが、農薬も化学肥料もなかった時代に人が何をどうやっていたかを知っておくと、自分の田んぼで起きることの見え方が変わります。
国立歴史民俗博物館は、AMS炭素14年代測定にもとづき「紀元前10世紀ごろに九州北部で水田稲作が始まった」とし、弥生時代を紀元前10世紀から紀元前3世紀までの約700年としています。約600年後には、水田稲作を受け入れる地域と受け入れない地域に大きく分かれたとも述べています。
一方この新説には異論があります。従来の定説はおよそ紀元前500年ごろで、歴博が2003年に発表した「定説より約500年古い」とする説に対し、考古学会や考古学者から異議が唱えられました。批判の論拠は、基礎データを示さない発表のしかたと、測定結果への海洋リザーバー効果の影響です。
公的機関のあいだでも年代観は揃っていません。吉野ヶ里歴史公園(佐賀県)は紀元前8世紀に北部九州で水稲耕作が始まったとし、弥生時代を紀元前5世紀から紀元後3世紀としています。
縄文時代晩期から弥生時代中期にかけて、数期にわたる変遷が確認されています。最下層からは縄文時代晩期後半の土器が出土しました。水田は土を盛った畦や矢板列によって区画され、水路と井堰をともなっていました。木製・石製の農具が炭化米とともに見つかっています。
つまり最初期の水田稲作は、すでに「区画して水を張り、水の出入りを人が制御する」という現代とおなじ骨格を持っていました。
出典:唐津市 菜畑遺跡
登呂遺跡(静岡市)では8万平方メートルを超える水田跡が見つかっています。静岡市立登呂博物館は約2000年前の弥生時代後期としています。
当時の収穫具が石包丁です。半月形か三日月形の石に刃をつけ、手首に通す穴を二つ開けたもの。「弥生時代の稲は熟成時期がばらばら」だったため、熟れた穂だけを選んで刈る穂首刈りに使われました。品種が揃っていない稲を相手にする道具です。吉野ヶ里からは炭化米と竪杵が出ています。
1町(約109m)四方の区画を1坪とし、坪を横に6個並べて1里、縦に6個並べて1条とする土地区画制度です。7世紀後半に班田収授の法が始まり、奈良・平安時代に本格化しました。平安時代の水田遺構では一辺5〜20mの区画が確認されています。
鎌倉時代に米のあとに麦をつくる二毛作が畿内・西日本へ普及し、室町時代には東日本を含む全国へ広がりました。田んぼを一年に二度使う技術です。
豊臣秀吉のころ約150万町歩だった全国の耕地面積は、100年後の元禄のころには2倍近い約300万町歩に増えました。国立国会図書館のレファレンス(速水融編『日本経済史1』岩波書店 1997)では、1598年の太閤検地で田畑206万5000〜230万町、享保・延享期(1716-48)に約297万町、1873年の地租改正で323万4000町とされています。
元禄10年(1697年)には宮崎安貞の『農業全書』が京都で出版されました。序文は貝原益軒。150種以上の作物を収録し、著者が福岡西郊で40年暮らした実践にもとづいています。日本で最初の体系的な農書です。
この時代の除草は、すべて人の手でした。幕藩は優良品種の持ち出しを禁じており、品種は藩ごとに囲い込まれていました。
いまも自然栽培でよく使われる在来品種は、この時期に篤農家が田んぼで見つけ、選び抜いたものです。育種家ではなく、農家が主役でした。
| 品種 | 年 | 育成者・場所 |
|---|---|---|
| 神力 | 1877年 | 兵庫県・丸尾重次郎 |
| 愛国 | 1882年 | 静岡県・高橋安兵衛が選出。1892年に宮城県で命名 |
| 亀の尾 | 1893年 | 山形県・阿部亀治 |
| 旭 | 1908年 | 京都府・山本新次郎 |
大正10年(1921年)には人工交配による陸羽132号が生まれます。母は愛国由来の陸羽20号、父は亀の尾4号。昭和4年から27年まで23年間、東北地方で作付第1位を保ちました。農家の選抜から、試験場の交配へと主役が移った節目です。
昭和21年(1946年)10月21日に自作農創設特別措置法が公布され、翌年12月29日に施行されました。小作地が耕作者のものになり、戦後の日本の農村の骨格ができます。
出典:国立公文書館
これは自然栽培をやる人にとって、いちばん重い節目かもしれません。除草剤PCPが導入されたのは昭和34年(1959年)。それ以前の田の草取りは「労働10回、時間50時間を超える重労働」でした。10aあたりの数字です。
PCPは全面積188万ヘクタール、全稲作の60%で採用されました。ほとんど一夜にして、日本の田んぼから草取りという仕事が消えたことになります。PCPは魚毒性の問題から1962年以降に使用が制限され、1980年代に廃止されました。
自然栽培で除草にかかる時間の重さは、この歴史を知ると腑に落ちます。チェーン除草や田車でやっているのは、1959年に手放した仕事を引き受け直すことです。ただし当時とちがい、いまは深水管理や機械除草という技術の蓄積があります。
出典:日本植物調節剤研究協会
父「農林1号」、母「農林22号」から1956年に誕生。いまもうるち米の作付第1位で35.0%を占めます(上位20品種で約8割)。日本の田んぼの3枚に1枚がコシヒカリという状態が、半世紀以上つづいています。
食糧管理法は1942年に制定され、1995年に廃止されて主要食糧法(新食糧法)に移りました。生産調整、いわゆる減反は1971年に始まり、平成30年(2018年)から行政による生産数量目標の配分が廃止され、産地・生産者が中心となって需要に応じた生産を行う仕組みへ変わりました。
農薬と化学肥料が普及していく、まさにその同じ時代に、それを使わない農のかたちを模索した人たちがいました。
1935年に無農薬・無肥料の栽培を始め、昭和25年(1950年)に「無肥料栽培」から「自然農法」へと呼び名を改めました。1953年には自然農法普及会を設立しています。
1947年、不耕起・無肥料・無農薬・無除草の四大原則にもとづく農法を始めました。1975年9月に柏樹社から『自然農法 わら一本の革命』を刊行(1983年5月に春秋社から新版)。世界各国語に訳され、日本発の農法思想として最も広く読まれた一冊です。
この教科書の品種一覧にあるハッピーヒルは、福岡正信が育成した品種です。
一楽照雄が結成趣意書を起草しました。「有機農業」という言葉が日本で使われはじめた起点にあたります。
2006年12月、有機農業推進法が議員立法として制定されました。2021年5月には、みどりの食料システム戦略が策定されます。2050年に有機農業を耕地面積の25%(100万ha)へ、化学農薬を50%低減、化学肥料を30%低減という目標です。
ただし現状は耕地面積の0.8%。目標との距離は30倍あります。
出典:自然農法/福岡正信(この2項目のみ、公的資料に該当記述が見つからず二次情報を用いています)/日本有機農業研究会/鹿児島大学 有機農業に関する資料
技術の進歩がなにをもたらしたかは、二つの数字にはっきり出ています。
収量は明治16年の178kg/10aから令和2年の531kg/10aへ、およそ3倍になりました。同じ面積から3倍の米が穫れるようになったということです。いっぽう労働時間は、昭和55年の64.4時間/10aから平成27年の23.0時間へ、3分の1近くまで減りました。1959年以前は草取りだけで50時間を超えていたことを思えば、減り方の大半は除草剤が担ったことになります。
出典:山形県 農業関係資料(全国値)/農林水産省 労働時間/日本植物調節剤研究協会 講演資料。1950年代の労働時間は公的統計での具体値を確認できませんでした。
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